私の母

今週のお題「おかあさん」 

生きていれば、80代。

母の3人の弟である叔父達は健在なので、たぶん家にしょっちゅう来て、むかし話など4人で語り合っているだろう。

仕事人間と言う言葉がぴったりで、仕事がなければ自分の実家に行くような人だった。

一人暮らしの母が気にかかって、毎日家の電話からや仕事場近くの公衆電話から座り込んで一時間程話していた姿が、想像できる。

真ん中の弟である叔父のところへ姉妹のように仲の良かった母と祖母がたった1回だけ遊びに行った事がある。

宝塚歌劇団の舞台を初めてで生涯最後に見た母。その喜びようは、話を聞いているだけで充分伝わって来た。

歌が好きで鼻歌交じりに洗濯物を干しながら歌う母の姿が思い出される。

寝ていても、亡くなった方の夢をよく見るとかで、今日は誰々さんの夢を見たと話していた。

共働きで厳しい夫の母である祖母に仕え、常に周りの人の事を1番に考えていた母。

56年と言う短い人生だったが、母こそ太く短く生きた人である気がする。

こうして母の事を書いていると次から次へと話題が出て来て困る。

母が亡くなって花嫁道具を苦労して持たせてくれた特に祖母に常に感謝の言葉を口にしていた。その箪笥の引き出しに大切にしまわれていた祖父からの手紙や夫の愚痴のようなものを書いた手帳。古びた一冊のノートは、中学校からその町で1人だけ高校へ行くと言う母へ友人からのメッセージが書いてあった。

母は、人の話を聞くタイプで自分から話す事はなく、最後の入院先でも、私が好きな人とかいたの?とか聞いても話をはぐらかして教えようとはしなかった。

下世話な話が大好きな私は、母があまりに優等生すぎて、そういう人間味豊かな部分ももっと知りたかった。

小さい頃からのアルバムも本当に真面目で優等生と言う写真だった。

子育てなどもっともっと話をしたかった。

長女に生まれた私は、弟や妹のように甘えた事が無かった。

母とは喧嘩にもならなかったし、本当に良妻賢母と言う言葉があてはまる人だった。

私も年齢を重ねる度に母は偉大だったと思う。

不肖の娘だった私は、一度も母の日に、何かしらしてあげた事も無かった。

今日は母の日。

私から初めての感謝の気持ちを捧げたいと思う。