私の父

今週のお題「おとうさん」

亡くなって丸6年経つ。

私の父は、幼い頃に父親を亡くし、ずっとさびしさをかかえながら生きた。

私達から見るとおじいちゃんだが、周りの人から聞く父は、優等生だった。

そして仏壇を作る仕事をしていたおじいちゃんの書を見せてくれた。まだ私は、書道を習いに行ってなかったが、草書の達筆な筆使いだった。

私は、3人兄弟の長女で1番上に生まれ、父の期待が大きかった。小学校の四年生の頃から、英語のレコードを聞かされ、近所にある銀行のグランドまで朝早く走らされた。教育熱心な人だった。

共働きの夫婦で、弁当作りも父方の祖母が作る。母の肩を持つと祖母の機嫌を損ねた。

母は、我慢ばかりしていた。父は組合活動に熱心になりすぎ、停職扱いになった。その1ヶ月間も母の一言で朝出掛けて夜帰ってくる日々を送っていた。感謝の気持ちを晩年話していた。

たぶん母は、父の事を信頼していたと思う。

 身内が亡くなり、普通は後悔と言う言葉が出てくるが、父に関しては、ない。

好きな事を好きなようにやり、人に嫌われもせず、最後になった病院も退院を目標にリハビリを頑張った。

私が書く事に興味を持つきっかけは、父がある日の晩、父と私と四歳下の弟3人で新聞の社説の題名だけで文章を書く事をさせたためだ。

長くは続かなかった。

しかし、その後も父に文章を見せる時は、起承転結やであると言う短い文体で書くなど教えた。

父は、小説家になりたい夢があり、仕事を辞めて、大学に入り直した。

でも、書く事に必死ではなかった。

人の事を羨ましがることも嫉妬することもなく、身近な後輩が地元の文芸賞を取った時も自分の事のように喜び、その話をどこでもした。誰に対しても応援団長として存在している人。

だから、子供のように無邪気な笑顔で接していた父がいない今、私が父に質問した答えがわかる。

それは妻や母を亡くしてどう思うか?と言う答えに俺が死んだらわかると答えた。

さびしい。

さびしさを紛らすために明るく過ごしていた。

焼酎が大好きな父。

父の日にプレゼントしない不肖の娘から感謝の言葉を捧げる。